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2022年12月 3日 (土)

わだばわになれ、、

このたび青森県褒章というものを授かりました。アメリカより帰国し、数日してその授賞式へ向かいました。

5年前に青森県文化賞を授かり、その後の活動記録の提出を求められておりましたので、まさかこのような賞へ繋がるなどとは予想もせず、文化賞受賞者の受賞後の活動報告の義務づけだと思っての提出でした。

実際、その5年間に起こったことは自分でも想定外だった内容が多く、絵本翻訳、支援学校での音楽ワークショップ、ライブ盤アルバム、アンビエントアルバム制作、美術家とのコラボレーション、ホームライブの継続、国立劇場での公演参加、髙田(伯母)の画廊の紹介、故郷でのボランティア活動、小論文発表、そして先日のアメリカ公演、緩やかながら多くの方々のサポートに恵まれ、やれることを実践できた時間、感謝ばかりです。

私は文化、教育、学術部門での受賞、授賞式はホテル青森、ここでは演奏したことのある孔雀の間、、広い!

老舗ホテルに前泊しての驚きは、、部屋の快適さ、そして朝食。他の都市で味わったことのない快適さ。なんだろう、この落ち着くホテル泊。

緊張の授賞式の後、もう訪問は最後になるかもしれないと思い、3月に閉館が決まった棟方志功記念館へ。

「わだばゴッホになる」と語った棟方は、ゴッホではなく、世界の棟方になった、とどこかで読んだ。その通り、、この記念館で毎回静かに向き合う棟方志功の「釈迦像」は世界でここしかないだろうと思える静謐美に満ちている。ああ、、なんとも残念。ゴッホ美術館はアムステルダムにあるというのに、青森の地が生んだこの芸術家の名前を冠した美術館がなくなる。

美術館というのはそこに在るだけではいけないのだろうか、いろんなイベントを提供し人の交流の活発化がなくては存続できないということだろうか。確かにそうであろうと思う。一つの経営、事業であることに違いないのだから。でも、、そこに在るだけでいい、そこに棟方志功の作品の息たるものに触れるだけでいい、とは時代遅れの発想なのだろうか。

ここには両親とも出かけた思い出の場所。父のアメリカの友人を招いての小さな旅。入院中の父がこの時だけは外出を許された。医師が父の残りわずかであろう人生に対し、やりたいことをやってください、と残酷にも寛大に父へ告げた言葉。しかし、父は、たった一度のアメリカ出張で知り合った友人夫妻を笑顔でおもてなしできた貴重な時間にもなった。それは私自身のアメリカ留学直前の小さな、しかし忘れることのできないかけがえのない時間、家族旅行でもありました。

父が友人に見せたかった場所がこの棟方志功の生への欲望、生の葛藤、息絶えるまでの魂の在り処、、、、であったことは間違いなく。

一つのケジメのように、一つの報告のように、授賞式のドレスのまま走った。

父さん、母さん、おばさん、ありがとう。私はゆっくり歩いています。

伯母のコート、母の指輪

棟方志功の写真の前で

わだばまだ何者にもならず、、

わだばわになれ、、

突き放せ、

楽ちんになれ、

狂うくらいで、

奔放に。

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