音窓ARAYAの3月は、ご予約のお客様がいたらそのグループさんと日程を決めるという方法で開催中。
春一番のかわいいお客様は保育園児12名。24の瞳と共に。
いつもお土産のお菓子選びに迷ってしまうのですが、エイヤーっと、新谷はクッキーを手作りで用意しました。っていうほどのことでもないのですが、母が残してくれた昭和時代からのオーブンが活用できるので久々にクッキー型などを探しに出かけて、グラニュー糖の代わりにオーガニックシュガーというものであっさり味、子どもには甘さ足りずか、、でも手作りは疲れも吹っ飛ぶ、、そんな感じでコンサートも80分近く!!(保育園児には通常45分)
子どもたちは、まだ帰りたくない、もっと叩きたい、もっと聴きたい、今日のこと忘れないよ、、
このコトバがある以上、求められたら、とことんしなやかに、活力、滋養、心身健康維持、などなど、持続可能な人間力が任務か、、こどもたちと過ごす時間の責任、その意味、価値を音出しの終わりにいつも感じますね。
春は花粉症に悩む季節ですが、今年は都心部から意識的に離れ過ごしています。
実家に長く滞在するのも、そういう意図でもありますが、小さくともホットな時間、長い冬の後にやってくる笑顔に会いたい、そんな思いもあるのかもしれません。
赤ちゃんとママ、そんなグループさんもやってきたら楽しいだろうと思っています。先日は一組だけの親子さん、それはそれでしっとりいい時間でした。
さて、4月5日の八王子鎌田鳥山での演奏も近づいてきました。詳しくはホームページのコンサート情報をご覧いただければと思います。ちょっとした変化球になりそうなコンサート。ぜひ、ぜひ〜〜
今日で配信アーカイブも終わります。海外からご視聴くださった方や、長く音信不通だった方からの連絡、以前の教え子であった現在は支援学校教員の言葉の重さ、美しさ、などに、ブルブルと涙しながら今日。
昨日は心身の状態をいつも打ち明けあっている友人とカフェ朝食会、そんな会話の中で気付かされる小さなことの一つ一つが今は深く染み入ります。
新曲「ダークレッドな夜に」は好きな1曲に仕上がりました。最初はちょっと音程を掴む難しさで苦戦した歌い方になってしまったことは猛反省。
この歌詞の最初が「ルビをふってちょうだい、、」なのですが、、もうお気づきの方もいると思いますが、ルビとはフリガナをふる、という意味ですが、「ルビーの石」への連想があります。その石の色彩をダークレッドな夜へと結びました。って、こんなマイナートークですみません。会場照明はそんな色で落ち着かせてエンディングになっています。
歌詞についてちょっとした打ち明けするトークも楽しいものですね。この曲はいつかレコーディングできるように邁進、邁進💓
あ、テーブルのお花もダークレッドな感じです。😅
冬の体育館、大型ストーブあってもなかなか暖まらない。
子どもたちが集まってくる時間。ワイワイドキドキの表情を見せている様子です。
マスク生活、黙食の小学生にやってきたこの時間。生演奏。振動が伝わって、みんな驚いているのか、真っ直ぐステージを見ています。マスクの上の目だけで彼らの輝きが伝わってきます。
学校の状況は、音楽鑑賞会などにまで余裕がないという本音を聞きます。タブレット環境のための経費の優先はそちら、と聞いては、あれよあれよと、文化活動がバサバサカットされ、これは日本の文化力の弱さをさらに悪化させているのではと感じます。
今日のこどもたちを見ていればわかります。彼らに必要なことは何かということ。こちら目線の文章でしょうか。そうかもしれませんね。
でも機会あれば願いを言い続けるのもこちら側の役割かもしれません。なんとか生演奏の一つでも子ども時期に体験ということを作るのは大人。こちらの想いと、そして現場の熱意ある先生との思考交換、つながり、、それを大切にしていきたいと思います。
私は環境問題などには関心があっても個人的な努力をするだけで、大きな力を示すことはできない。ならば、やはり音楽の力。音の波動を生かすこと。
この身体の力がある限り、生きた音を作り、渡し、続ける意味。今日も新たに感じた寒い日、、午後。
スタバのデカフェ、体をあっためて帰途へ。
自分には久々の依頼が続いており、先日はマリンバ公開レッスン。
リズムや打楽器の講座が多いなかで、やはりマリンバ専門に関しては多くを語れるけれど、多くを語ってこなかったなという思いもあります。
やってみると、どうしたものよ、、マリンバについてはまだまだ語らなくては、という姿勢も謙虚に持ち続けたい。言いたいこと、感じていること、自分がやっていることを誇示する必要はなし。
自分の中のマリンバ時計というのは、随分とゆっくりだ。遅くなったり、ゼンマイを元に戻すまではしなくとも、カチカチっとねじって回す時のあの指の圧力や、どこまで一度に回すか、などを考え考え時計が止まらない程度に進めている。
その中での気づきが2022年12月というところまでは、修理やら置く場所を変えながら時の流れを見つめつつの、歩みをしてきたのではないか、と独り言としてのつぶやき。
マリンバ時計というのは自分流で良いか、それだけもなし。人と繋がる時を刻むもの、、自分が語るための楽器なら、人への繋がりももっと深めていきたい、そんな想いが高まる12月を送っています。
昨日は市内2カ所での演奏。こちらは長年お世話になっているボーイスカウトでのクリスマス会。飾り付けはスカウトの大学生女子が2名、すっぽりとマリンバを包んでくれて、明るきマリンバも嬉しそう。小型のマリンバ、うーん、とても良い音で大活躍してくれました。
夏、生の演奏をやらずにはいられない。大きな場所でなくていい。自分の思いが届く場所。ホーム。
今夏は審査と講座担当の依頼をお断りして、自分設計時間にした。
本来なら優先して受けていた仕事のいくつかを、、、しなかった。
何かを優先していかなくてはならない夏となったから、今、自分の中で。
繰り返し読む本、またそれを読んだ夏。
この空間が「生きてきた」と感じている。いろんな人が出入りして、いろんなことを語ってくれて、帰っていく。
私自身の発信と誰かの想いが交差する。
旅の最後にはマリンバのイントロで始まるサンタナのアルバムを繰り返し聴いた。
同じフレーズを何度も何度も聞く、そんな音楽の聴き方をしたのも懐かしい。そしてリフレッシュ。
東京に戻ってみると常に感じる、あの時間の流れかたの不思議さ。現実ではあったけど、幻のように定まらず、どこかにプワプワっと浮いているような時間。
調和されていたあの時空間が、どうやって作り出されたのか、、もう一度辿りたくなるような愛しさ。
根っこは東京の小さな空間に座して、あーでもない、こーでもないと考えるのが自分の「今」でもあるけれど、どうやら非日常となった遠くの場所にこそ、まだ見つかっていない鍵穴が潜んでいるようでもある。
少し前の演奏ですが、写真データが届いて、さまざまな演奏シーンの振り返りもある日々。
そして、ここのところ連日コンサート、映画、出かけています。室内、屋外、アンダーグラウンド。
音を聴く距離、なま、スピーカー、時々耳栓も使用。全て生には間違いなく、それなのに、コロナの時期から連日で外出して演奏を聴くという行為が久々すぎたせいか、狭い空間での大音量には少し草臥れた。すぐそこに演じる(演奏する)人がいるのだから、この爆音量はいったい、、
何を基準に作られた空間なのか。誰に向かって作っている音なのか。演奏は素晴らしいエネルギー、なのにそれ以上にクラシックホールの壁すら無視したかのようなスピーカーからの異物的な音。トークはもちろん、何を話しているのかさっぱり伝わってこないのが残念。
全てが完璧に終わらないのが常であるし、時に主体となる自身の演奏への観察根も込めて言うなら、やはり客観的洞察力を養うこと、これに尽きる。みんなが向かっている方向に正解があるかのような圧力は、コンサートの運び方、流れからからも見る方に痛く伝わることがある。
なんだこれは?と、理屈なく身体に感動をもたらすということはなんであろうか。そうしたことを考える時間も増えている。
綺麗事ではなく、、型通りでなく、、調和調和って叫ばないで、、
〜〜〜〜
最近はずっと曲が書けない時期にいた。今、今になって、ようやく私はずっと言葉と旋律に心が動き出す。
時はこうして巡ってくる。たぶん、これからも、、
書けない時期にはやはり自主企画などに気持ちも向かえないジレンマ。新しい言葉が吹き込んでいるときにこそ創造できる空間があるから。
しかし、全てに無駄な時間はないのだろう。自由に書く。
忘れたくないのは、今こそ蛮族でありたいということ。
今日は、雨、、でも小さな音具を鞄に忍ばせ外へ行こう、、
あと何回、こういうことができるだろう、、これは常に頭をよぎる。
CD制作も、ライブ活動も、自主的なコンサート企画も、無限に続くわけではない。
一回きりかもしれない、そう感じながら全てに取り組んできた、その連続。
もっと言えば、指導の現場でも同じことを考えるようになった。
この若手に、私が今伝えていることは、きっともう繰り返していうこともないだろう、と考えて向き合うようにもなった。
いや、何か使命感とか、そんなものでは決してない。
そして、大袈裟な人生観でもない。
普通に、何気なく思うことになってきただけかもしれない。
特に、演奏、一期一会の感触は増すばかり。ステージ演奏が多かった30代、40代は余裕がなかったから、あまりこういうことを考えている時間もなかった。とにかくその場にしっかりと立てること、打つこと、弾くこと、奏でる内容の質の向上、そこにかけがえのない家族があり、自分個人の思考、生活が同時進行。
今、こういうことを書きたくなったのは、週末に計画したホームコンサートの内容を組み立てながら、企画する楽しさ、初めてお迎えするお客様、どういう音の贈り物を組み立てることができるのか、その時間の充実度に我ながら驚いているから。自由にお迎えする時間、私の時間でもある。
そして、その人にとって一生の思い出になるかもしれない、いやどう刻まれるかは別として、音楽と同時に考える人生の一コマ一コマ。
故郷ではぼーっとすることも選択肢。レンタカーでどこまでも走る、もあり。でも、冒頭に書いたように、
あれ?あと何回、こういうことができそう?自身の体をしっかり使って、何かの種蒔きくらいのお役目はしたいもの、、そういう気持ちが高まった時に、私は「やらない後悔は嫌だな」と呟いている。
今朝は、雪が舞う。寒いけど、花粉症はしばし治まってくれている。
水の流れを聞くためだけに、川辺を探しているここ数年の自分がいます。
でも、最近は、その場所に自分を運びつつ、音を受け、音を奏で、音を考える時間が増えました。
https://www.youtube.com/watch?v=o3shyeH-cOY
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音はプロに録っていただく。編集していただく。自分が聴きたい音を達成できる。
でもこれまで同様、たまには、自分のアプリで楽しみますが、、、
長い即興の中から抜粋している映像です。バラフォンを自分の身体の一部のように扱うまではまだ長い道のり、そう気付かされますが、
それでも、少し自然な呼吸ができるようになってきた、そのプロセスを得ている今です。
自然の中では、人間の奏でる音など、小さな存在にすぎませんが、それでもこうした瞬間瞬間に出向くことから、
人の役割もどこかに見つけられそうです。